(前略)中将(上田宗重機関学校長)の面目のよくあらはれてゐますのは、機関学校の校庭、清浄の丘を選んで、神社を建立し、天照皇大神御祭り申し上げて、以て学校に魂を入れられた事でありませう。別に掲げていただきました中将の御手紙にも、「神明社の建立は小生の一生の仕事の中、最も大なるものにて、(云々)」と見えて居ります。
(中略)
中将は最も深く機関学校を愛して居られました。校長として当然といへば当然のやうでありますが、それは校長としての当然などといふやうなものでなく、実に深く心の底から熱愛して居られたやうに、私には感ぜられました。そして学校の将来を遠く慮つて居られたやうであります。
私に対しても年に一度は必ず来てくれるやうにと、懇々御依頼がありました。昭和十年、神明社の勧請せられました折に、刻むべき文字を書けと命ぜられました折にも、私としては僭越な事と思ひましたので、固くお断りしましたが、どうしてもお許しがなく、やむを得ず筆を執つて、「清心」の二字を謹書しましたのも、全く中将の熱情に動かされたからでありました。
それは九月二十二日(昭和10年)の事でありましたが、私はその朝はやく京都へ着いて、雨を冒して水無瀬宮に参拝し、ついで天王山に登つて真木和泉守の墓に詣で、午後、舞鶴へゆきまして、夜、講演をなし、講演のすみました後に、夜ふけて水交社の二階で、中将の前に立つて筆を執つたのでありましたが、それは殆んど昨日のやうな感じがします。
平泉澄博士「清純崇高の風格」(『上田宗重中将追慕録』海軍機関学校編纂)
(『明治の光輝』「上田宗重中将」に再録)
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- 2021.04.01
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