「楠公銅像の木型を見せよ」
高村光太郎は、昭和二十二年(一九四七)、自身の精神の変遷・遍歴を素材にした、二十篇の詩からなる自伝的な連作『暗愚小伝』を発表した。そのはじめは、「家」の題でまとめられた六篇、その最後に「楠公銅像」という詩がある。
ーまづ無事にすんだー
父はさういつたきりだつた。
楠公銅像の木型を見せよといふ
陛下の御言葉が傳へられて、
美術学校は大騒ぎした。
萬端(ばんたん)の支度をととのへて
木型はほぐされ運搬され、
二重橋内に組み立てられた。
父はその主任である。
陛下はつかつかと庭に出られ、
木型のまはりをまはられた。
かぶとの鍬(くわ)形(がた)の劍の楔(くさび)が一本、
打ち忘れられてゐた為に、
風のふくたび劍がゆれる。
もしそれが落ちたら切腹と
父は決心してゐたとあとできいた。
多きを語らなかつた父の顔に、
茶の間の火鉢の前でなんとなく
安心の喜びばかりでない
浮かないもののあつたのは、
その九死一生の思が殘つてゐたのだ。
父は命をささげてゐたのだ。
人知れず私はあとで涙を流した。
父とは、高村光(こう)雲(うん)(一八五二~一九三四)。木彫の第一人者、帝室技芸員であり、東京美術学校教授であった。時は、明治二十六年(一八九三)三月二十一日。光太郎は明治十六年(一八八三)の生まれであるから、十歳の記憶である。鮮烈な印象がこの詩に素直に再現されている。
父、光雲が勤める東京美術学校は、明治二十三年(一八九〇)四月、住友吉左衛門の依嘱をうけ、「楠公乗馬像」一体の製作に取り組んでいた。『東京芸術大学百年史・美術学校篇・第一巻』に収録されている「東京美術学校第五年報 明治廿六年分」には、「本年中処理せし要項」のひとつに、この日のことを、「三月廿一日依託製作に係る楠公像木型出来せしを以て宮城内へ搬運組立の上 両陛下の天覧に供す」と記録されている。
住友吉左衛門の依嘱とは、住友家が所有する別子銅山が、明治二十三年(一八九〇)、元禄四年(一六九一)の開坑から二百年を迎えるのを記念して、別子銅山採掘の銅を使った記念品を製作し、宮内省へ献納したいとのことで、その記念品製作の一切を東京美術学校に持ち込んだのである。
校内では、まず、その銅を素材にして、何を作るのかということから検討を始め、結局「楠公像」、それも「馬上の図」と決定、校内の教員・生徒に広く原案となる図案を募集し、応募の中から岡倉秋水提出の図案を採用して、それをもとに楠公像を作ることを決めた。この頃の美術学校ではまだ塑像を作ることがなかったため、原型は木彫で製作することになった。
光雲は、大正十一年(一九二二)、田村松魚(しようぎよ)と光太郎を聞き手にして、懐昔談をしたことがある。田村による聞き書きをまとめたものが、光雲『幕末維新懐古談』(岩波文庫)である。その中の、「楠公銅像のこと」、「馬専門の彫刻家のこと」、「木彫の楠公像を天(てん)覧(らん)に供えたはなし」、「その他のこと」で、このことを語っている。
「その図案を参酌して製作に掛かった楠公像の形は一体どういう形であるかといいますと。元弘三年四月、足利尊氏が赤松の兵を合せて大いに六波羅を破ったので、後醍醐天皇は隠岐国から山陽道に出でたまい、かくて兵庫へ還(かん)御(ぎよ)なられました。そのみぎり、楠公は金剛山の重囲を破って出で、天皇を兵庫の御道(みち)筋(すじ)まで御迎え申し上げたその時の有様を形にしたもので、畏れ多くも鳳輦(ほうれん)の方に向い、右手(めて)の手綱を叩いて、勢い切った駒の足掻(あが)きを留めつつ、やや頭を下げて拝せんとするところで御座います。この時こそ、楠公一代において重き使命を負い、かつまた、最も快心の時であり、奉公至誠の志天を貫くばかりの意気でありましたから、この図を採ったわけでありますが、これらの事は岡倉(天心)校長初め、諸先生のひたすら頭を悩まされた結果でありました。」
校内では、正成の人物・服装・甲冑・太刀・乗馬などについて、多数の教員が分担して調査研究を重ねた。その結果、「楠公の姿勢、服装、乗馬等がかくの如く忠実な研究」、多くの人々の考案を経て決められたのである。
このような入念なる準備を経て、いよいよ木彫によって原型を製作する段となり、光雲と山田鬼斎・後藤貞行がそれを担当し、開始より約二年を費し、すべて檜材を用いた原型が完成した。美術学校は、明治二十六年三月十六日、校内の庭にこれを組み立て、文部大臣はじめ、関係者を招いて内覧・披露の機会をもったのである。このことは、当然天皇のお耳にもに入った。
さっそく宮内省より「木彫を宮城(皇居)へ持って来て御覧に供せよとの御沙汰が岡倉校長に降った」のである。
まさに、美術学校は「大騒ぎ」となる。この大作を上野から皇居まで、どのように運搬するのか、組立の手順はどうするのか、また、かかる時間や手間についての研究を進め、さらに実地に練習を重ねたうえで、岡倉校長や光雲が現地となる皇居を訪れ、宮内省の掛と相談、設置の場所は、「二重橋を這入(はい)った正面の御玄関からぐるりと廻って南面したところの御玄関先」に決まった。
いよいよ、三月二十一日の当日、東の空が白む頃、木型を三台の大(だい)八(はち)車(ぐるま)に積んで上野の学校を出発、二時間程かかり皇居に到着。三本の足場を立て、滑車(せひ)で各部分を引き揚げ組み合わせるのに一時間半、都合約四時間かけて、予定の九時頃無事に組立は完了した。その光景は、
「御玄関に向かった正面へ飾り附け、足場を払って綺麗に掃除を致し、幔(まん)幕(まく)を張って背景を作ると、御玄関先は西から南を向いて石垣になっていて余り広くはありませんから、其所へ楠公馬上の像が立つとなかなか大きなものでありました。
それに材は檜(ひのき)で、只今、出来たばかりのことで、木(き)地(じ)が白く旭日(あさひ)に輝き、美事でありました。」
正午に出御という触れがあり、一同謹んでお待ちしていると、
「フロックコオトの御姿で侍従長徳大寺(実則)公を御伴(つ)れになってお出ましで御座いました。(中略)やがて階段をば一段二段とお下りになって玄関先に御歩を止め御覧になってお出でで御座いました。岡倉美術学校校長は徳大寺侍従長のお取り次ぎで御説明申し上げておりました。すると、聖(せい)上(じよう)には、何時か、御玄関先から地上へお降り遊ばされ、楠公像の正面に御立ちであったが、また、馬の周囲を御廻りになって、仔細に御覧になってお出ででございました。」
そして、ご覧の陛下からは、急所急所をついたご下問があり、岡倉校長がそれにお答えした。「楠公馬上の象は楠公がどうしている所の図か」とのお尋ねに、岡倉校長は、「これは楠公の生涯において最も時を得ました折のことにて、金剛山の重囲を破って兵庫に出で、隠岐より還御あらせられたる天皇を御道筋にて御迎え申し上げている所で御座います」と奉答。
続いて午後一時、今度は、皇后陛下が出御、三十分ほどもかけてゆっくりご覧になった。光雲ら学校関係者は、これで万事滞りなく済ますことができ安堵したのである。しかし、光太郎の詩にあるように、「かぶとの鍬形の劍の楔が一本、打ち忘れられてゐた為に、風のふくたび劍がゆれる。」ことがあって、「どれくらい心配したことか。もし剣が風のために飛んだなりなどしては大変な不調法となることであったが、落ち度もなくて胸を撫で卸(おろ)した次第」であった。
皇居前、馬場先門に立つ楠木正成像誕生に至る一場面の話である。先に引用した、『東京芸術大学百年史』に載せる、『京都美術協会雑誌』第十一号(明治二十六年四月二十八日)は、この日の様子について、
「当日 陛下には徳大寺公爵以下十四五名の侍従と宮城御車寄前に出御あり岡倉美術学校長及高村後藤の両氏御前に咫(し)尺(せき)し岡倉氏一々之か説明を申上けしに、天顔殊に麗しく能く出来たりとの御賞辞あらせられたりと承りぬ。夫より皇后陛下も女官七八名香川皇后大夫を従はせられ出御暫く叡覧ありしがいと御感の御気色なりし由に伺はれたりと」
と記録している。
天皇も皇后も、できばえにご満足され、銅像の完成に大きなご期待を抱かれたことであろう。美術学校と関係者にとっては、まことに名誉のことではあったが、それにしても、ご要請に応えるための苦心は、このように大変なものがあったのである。
明治天皇は、美術学校へもお心を寄せられ、しばしば侍従をお遣しになって、奨励の意味から、生徒の作品をお買い上げになるなどのことはあったが、この楠公像に対しては、格別のご注文をおつけになった。木彫の原型が出来たことがお耳に入るや、その完成をお待ちになれず、宮城で組み立てて見せよとの強いご希望であった。これは、平常の美術学校の活動や美術作品へのご関心とは格段違うものがおありになったからであろう。天皇にとっても、楠木正成は格別の存在であったからである。なお、この同じ時期、東京美術学校が依託を受け製作に取り組んでいたもう一つの大作に、西郷隆盛像がある。天皇は、これにもお心を寄せられていたには違いないのであるが。
「正成と孔明、いずれかまさる」
明治十年(一八七七)八月二十九日、宮内省では、職制および事務章程の改定があった。そのひとつに、新たに「侍補(じほ)」の職が設置された。「侍補」は、常に天皇のおそばに在って、君徳の涵養をおたすけする役割を担う、「常侍(じようじ)規諫(きかん)闕失(けつしつ)を補(ほ)益(えき)するを掌る官」として設けられた。一等侍補には宮内卿徳大寺実則・吉井友実・土方久元、二等侍補には高崎正風・元田永孚、三等侍補に米田虎雄・鍋島直彬・山口正定の八名が任ぜられた。
侍補の任命がおわると、天皇は、即時に彼らをお召しになり、謁を賜った。そして、「正成孔明(まさしげこうめい)孰優(いずれかまさる)」(楠木正成と諸(しよ)葛(かつ)孔明を比較し、いずれが優れていると思うか)との論題をお示しになり、和歌にすぐれた吉井友実と高崎正風は歌で、土方久元は漢詩で、元田永孚は文で、鍋島直彬と山口正定は文もしくは詩で、米田虎雄は詩歌を学んでいないので口語でよい、それぞれ奉答するようにお命じになった。お側にある人々の個性を深く理解されたうえでの、愉快なご下命であった。(『明治天皇紀』)
天皇は、この前年(明治九年・お年二十六歳)秋の頃から、当時侍講としてお側に奉仕していた元田永孚(もとだながざね)に対し、歴史上の人物を具体的に挙げて、その人物評価をお示しにり、元田の意見を問われることがあった。今回、侍補たちにお与えになった論題、楠木正成と諸葛亮(字(あざな)、孔明)の比較についてもご下問があった。その時のことを、元田はその日記(『当官日?』)に、
「去秋(明治九年)来、聖語の初する所を伺ふに、正成・孔明の優劣は治国の経綸、孔明を以て優なりとし玉ひ、孔明の劉禅(りゆうぜん)を輔佐する如きには正成は及ぶましく、孔明湊(みなと)川(がわ)に在らは必しも正成の如く戦死すること無かる可し、などとの勅問あり。」
と記している。
天皇からは、右の二点から考察して、「孔明が正成に優っていると思うが、元田はどう考えるか」とのご質問であった。元田がここに記録している、天皇の歴史上の人物比較のご見解は、このほかにもあり、たとえば、豊臣秀吉とフビライを比較して、秀吉が本能寺の変の報を聞いて、即座に毛利と和し、急速に山崎に馳せ登って明智を討滅した「鋭敏には忽必烈(ふびらい)は及ふへからさる」が、「忽必烈の諫言を聞て日本を撃つことを止めし如きは秀吉は能はす」などである。さて、この御下問に、元田がどのように奉答したのか知りたいところであるが、それは記されていない。
正成と孔明がおかれた地位や立場は異なり、比較は容易ではないように思われる。しかし、天皇が、正成と孔明の比較研究を、「治国の経綸」にかかわる重大な課題であるとされたことは、まことに重い意味をもつことであろう。
諸(しよ)葛(かつ)亮(りよう)(孔明、一八一~二三四)。三国時代、蜀漢の名宰相として有名、『三国志』によって広く知られ、尊敬され慕れている人物。「三(さん)顧(こ)の礼」、「天下三分の策」、「水魚の交り」、「泣いて馬(ば)謖(しよく)を斬る」、「死せる諸葛、生ける仲(ちゆう)達(たつ)を走らす」、「死して後已(のちや)む」などの広く知られる語は、いずれも孔明にかかわる故事やその語録から生まれたもの。数多くの英雄・豪傑が知略・知謀をめぐらし、勇気を奮い起こし、死力を尽くして活動したこの三国時代、蜀漢の劉(りゆう)備(び)の孔明に対する厚き信任、この信任に終生変わぬまごころを尽くし、これに応え続けた孔明、この劉備・孔明主従の美しき物語は、人々に大きな感動を与え続けてきた。
明治天皇が、この孔明に対するに、日本史上比肩する人物として楠木正成を取り上げられ、しかも、「治国の経綸」にかかわると仰せられたことの意味は重い。
『明治天皇紀』によれば、明治元年(一八六七、お歳十七)五月・六月の頃から、『論語』・『孟子』の輪読を始められているが、さらに、秋月種樹(あきづきたねたつ)を侍読として、『資(し)治(じ)通(つ)鑑(がん)』を講学されている。『資治通鑑』は、宋の司(し)馬(ば)光(こう)が、英宗の命をうけ、春秋から戦国に移る紀元前四〇三年から、宋の建国の九六〇年までの一三六三年の歴史を、正史をはじめ三二二種の書を用いて編年体でまとめた歴史書で、シナの通史を学ぶのに格好のテキストである。お若き君主として、三国時代の緊張の中にうまれた、この劉備・孔明主従の終生変わらぬまごころの交りに、お心を留められないはずはない。
「出師の表を吟ぜよ」
こんなこともあった。明治十年(一八七七)十一月二十一日のこと。この年二月から始まった西南の役は、九月二十四日、西郷隆盛の自刃で終焉、それから間もない頃である。天皇は、青山御所御苑内の萩御茶屋に幸(みゆき)され、観(かん)菊(ぎく)の宴をもたれた。当日当番の侍補が扈(こ)従(じゆう)したが、元田永孚も特別のお召しで宴に陪した。この夜のことを、元田は『還暦之記』に感激をもって記している。
この日は、「天気晴朗夜に入り円月天に満ち菊花爛漫今を正に闌(たけなわ)」で、また、「聖体の御脚(かつ)気(け)症も御平癒になり玉ひたれば龍顔も殊に麗しく温言快語」であらせられた。天皇は元田を御前近くにお召しになり椅子を与えられた。元田は盃を賜り、さらに、親しくお箸でおとりくださったお料理までも賜った。このように、侍補たちと盃を交わし打ち解けたなかで、「聖語快活として古今内外の御論談に」およんだ。
「今夜の御談論は、永孚是迄侍読中未た聞かさる御活見にて、真に驚喜に耐えす、米田(虎雄)も侍従以来始ての御英談と称し奉り、建野卿三(侍補心得)は前後始めての事にて、外国の御論は西洋人をして之を聞かしむるとも、肯(あえ)て閒然なからんと驚感奉りしなり。」
と、天皇のご談話は、ただ快活であったのみならず、海外の情勢についても豊かなご見識を披瀝されたことに、驚きと喜びもって記している。
さて、天皇、ご論談もお盛んであったがお酒もおすすみになった。そして、元田に「汝出(すい)師(し)の表(ひよう)を吟せよとの勅諭」がくだった。
「出師の表」
西暦二二三年、劉備は、永安にあって病んだ。孔明は、その二月永安に帰った。病篤い劉備は病床に孔明を召し、後事を託す。「君の才は、魏の曹丕(そうひ)に十倍する。君なら、必ず漢を興し賊を滅する大事を成し遂げるであろう。もし我が子、太子の劉禅(りゆうぜん)に、君主としての力量があるのならばこれを輔佐してもらいたい。しかし、その才がないのであれば、遠慮することなく君がその地位について、必ずや漢の再興をはたしてもらいたい」。孔明は、流泣(りゆうきゆう)してこれに答える。
「臣、敢て股(こ)肱(こう)の力を竭(つく)し、忠貞の節を効(いた)し、之に継ぐに死を以てせざらんや(死に至るまで変わることはありません)」
と。その年四月、劉備は六十三年の波乱に富んだ生涯を終えた。孔明は、劉備の遺骸を奉じて、都成都に還り、五月、太子劉禅が即位した。孔明は、国内の体制を整えたのち、南征の途に就き、二二五年雲南を平定し成都に凱旋した。いよいよ、魏に対する北征の時を迎えた。この出発、劉禅と遠く離れるにあたって奉った上表文が「(前)出師の表」である。
「臣亮言す。先帝業を創むる未だ半ばならずして、中道に崩?(ほうそ)す。いま天下三分し、 益州疲弊す。此れ誠に存亡の秋なり。」
(臣亮申し上げます。ご父帝は漢を興し賊を討つ事業を始められましたが、その業半ばにもおよばぬうちに崩御されました。天下は三分していますが、わが益州(蜀)は最も疲弊しており、今や存亡の岐路に立っております。)
から始まる「出師表」は前後二段からなる。前段はこれに続き、
「然るに侍衛の臣、内に懈らず、忠志の士、身を外に忘うるものは、蓋し先帝の殊遇を追ひ、これを陛下に報いんと欲するなり。」
(このように、我が蜀は苦難に直面してはいますが、陛下の文官たちは、内、朝廷の中で職務を怠らず、また武官たちは、外、辺境の防備に身命を忘れて働いています。これは、先帝陛下、つまりご父帝から賜ったご恩を忘れず、そのご恩に報いるために、これからは陛下にお尽くししようとしているのであります。)
「誠に宜しく聖聴を開張して以て先帝の遺徳を光(かがや)かし、志士の気を恢弘(かいこう)すべし。宜しく妄りにみづから菲薄し、喩へ引き義を失つて忠諫の路を塞ぐべからざるなり。」
(そうであれば、陛下、陛下もご父帝のように、臣下の進言にお耳を傾けられ、ご父帝の遺徳を輝かし、志士の義気を高められなければなりません。ご自身で、我が身には荷が重いなどとお考えになって、都合のよい例をひいて逃げ腰になり、大義を失われてはなりません。決して、忠義の臣からの諫言の道を塞がれませぬように。)
「宮中・府中一体たり。臧否(ぞうひ)を陟罰(ちよくばつ)する、宜しく異同あるべからず。もし姦をなし科を犯し、及び忠善を為すものあらば、宜しく有司に付し、その刑罰を論じ以て陛下の平明の理を昭(あきら)かにすべし。宜しく偏私して内外をして法を異にせしむべからざるなり。」
(朝廷と幕府は陛下にとって一体のものであります。善悪の賞・罰について区別があってはなりません。もし、不正をなし法を犯す者があり、また忠義の行いがあれば、必ず担当の者にお下げになり、充分な論を尽くさせ、賞・罰を決定せられて、陛下の政が公平で明朗であることを天下に明らかにされるべきであります。決して、側近を偏愛せられ宮中・府中の賞罰の法が異なることがあってはなりません。)
これに続いて、劉備が、劉禅に遺した有能な文官・武官の名を具体的にあげ、
「侍中尚書・長吏・参軍は此れ悉く貞亮、節に死するの臣なり。願はくは陛下これを親しみこれを信ぜば、則ち漢室の隆なる、日を計へて待つべきなり。」
(侍中・陳震、長吏・張裔、参軍・將?、これらは、心正しく国のため命を惜しまぬ臣であります。陛下は、これらの人々を親しみ信任されますように。そうすれば、必ず漢室興隆の日は実現するに違いありません。)
そして「出師表」は後段に続く。まず、劉備・孔明の運命的で道義的な出会い。劉備が礼を尽くし、三度にわたり孔明の草廬を訪れ、天下の大勢について孔明に意見を求めたときのこと。いわゆる「三顧の礼」。(「先帝臣の卑鄙なるを以てせず、猥りに自ら枉屈して草廬の中に三顧し、臣に諮るに当世の事を以てす」)。孔明はこれに感激、劉備のために骨身を惜しまず奔走することを誓ったのである。(「是に由り感激して、遂に先帝に許すに駆馳を以てせり。」)
その後、劉備が、魏の曹操の不意打ちにあって大敗を喫した時、孔明は劉備の命をうけ、呉の孫権のもとに赴き、呉との同盟を結び、その力で曹操の軍を赤壁に迎え撃ち大勝を果たした(「後傾覆に値ひ、任を敗軍の際に受け、命を危難の閒に奉ず。」)
はじめて先帝のお役に立ったその時より数えて、今に二十一年になります。先帝は、わたしの謹慎なることをお認めくださり、漢室再興の大事を私にご遺託されました。その後、私は夙夜(朝から夜まで)心を労し、もし、私が、この先帝のご遺託を果たすことができなければ、それは先帝の私に対するご判断が誤っていたことになり、先帝の明を傷つけることになると恐れてまいりました。従って、私は、先ず南方の平定を成し遂げ、さらに北征の準備に努めました。準備が整った今、いよいよ北方、中原の地に兵を進め魏を平定すべき時に際会しました。これを実現することこそ、私にとって、先帝のご恩に報い、また陛下にご奉公する道であります。(「庶はくば駑鈍を竭し、姦凶を攘除し、漢室を興復し、旧都に還さんことを。此れ臣の先帝に報いて、陛下に忠なる所以の職分なり。」)
改めて劉禅に対し、
「陛下も亦宜しく自ら謀りて以て善導を諮諏し、雅言を察納し、深く先帝の遺詔を追ふべし。」(陛下も、ご自身でよくお考えになり、進むべきよき道を臣下にご相談になり、臣下の正しい言葉をご採用になって、深くご父帝の遺詔を受け継いでいただきますように。)
と、今、劉禅の側を遠く離れるに当り、劉備・劉禅二代の恩顧に感謝し、劉禅の前途を憂い、祈る気持ちで表を次のように結んだ。
「臣、恩を受け感激に勝へず。今遠く離るるに当り、表に臨ん
で涕泣し、云ふ所を知らず。」
これが、「読んで涙を流さざる者はその人必ず不忠ならん」(安子順)といわれた「出師表」の概要である。
桜井の里
元田は、天皇のご下命をうけ、「声を発して十一二句までを吟」じたのだが、還暦の元田には声が続かない、「老音艱渋続き難き」ため、後の部分の吟詠をお断りせざるを得なかった。天皇は、元田に茶をすすめられた。そして、なお、「又詩を吟せよ」と仰せられる。元田は、自作の詩をご披露することのお許しを得て、正成の子、楠木正(まさ)行(つら)を詠んだ詩(「芳山楠帯刀(たてわき)正行」)を吟じた。これは最後まで「声音朗々と吟し畢(おわ)」り、幸いに「大に御感賞に入」ることができた。
この詩は、正行が、賊将高(こうの)師(もろ)直(なお)との決戦を覚悟、四(し)條(じよう)畷(なわて)へ向わんとして、正平三年(一三四八)十二月二七日、後村上天皇にお暇(いとま)乞(ご)い申し上げるために、吉野の行(あん)宮(ぐう)に参上、後醍醐天皇の御廟を拝し、如意輪堂の壁板に同志一四三名、過去帳として各々の名字を刻み、その奥に、
返らしとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞ留むる
の一首を書き留めた、その正行の心事を詠んだものであった。
『太平記』、「正行吉野へ参上の条」(巻二六)は、『太平記』の中で最も精彩を放つところの一つである。行宮に参上した正行は、四条中納言隆資(たかすけ)を伝(てん)奏(そう)(取り次ぎ)にして決死の決意を申し上げる。
「父正成(中略)かねて思ひ定め候ひけるかによつて、つひに摂州湊川にして討死つかまり候ひおはんぬ。その時、正行十三歳にまかり成り候ひしを、合戦の場へは伴はで、河内へ帰し、死に残り候はんずる一族を扶(ふ)持(ち)し、朝敵を滅ぼし、君を御代に即(つ)けまゐらせよと申し置きて死にて候ふ。しかるに、正行・正時(正行の舎弟)すでに壮年に及び候ひぬ。この度われと手を砕き合戦をつかまつり候はずは、かつうは亡父が申しし遺言に違ひ、かつうは武略の言ふかひなき謗(そし)りに落つべく覚え候。(中略)今度、師直、師泰に懸け合ひ、身命を尽し合戦をつかまつて、かれ等が頭(こうべ)を正行が手に掛けて取り候ふか、正行・正時が首を、かれ等に取られ候ふか、その二つの中に戦ひの雌雄を決すべきにて候へば、今生にて今一度(ひとたび)君の龍顔(りようがん)を拝したてまつらんために、参内つかまつて候ふ。」
正行の言上する声は、後村上天皇のお耳に届いた。天皇、
「伝奏、いまだ奏せる先にまづ直衣(のうし)の袖をぞ濡らされける。主上、すなわち南殿の御(み)簾(す)を高く巻かせて、玉(ぎよく)顔(がん)ことに麗(うるわ)しく諸卒を照臨ありて、正行を近く召して、『朕なんぢを以て股(こ)肱(こう)とす。慎んで命を全うすべし』と仰せ出だされければ、正行頭を地に着けて、とかくの勅答に及ばず。ただこれを最後の参内なりと思ひ定めて退出す。」
正行の奏上、それにたいする後村上天皇の優(ゆう)渥(あく)なるお言葉、この君臣の応答、父正成が、後醍醐天皇より笠置に召し出され、日本中興の大事についてご下命を受けた際の奉答、
「合戦の習ひにて候へば、一旦の勝負をば必ずしも御覧ぜらるべからず。正成一人未だ生きてありと聞召(きこしめ)され候はば、聖運遂に開かるべしと思召(おぼしめ)され候へ。」(『太平記』巻三)
と合わせて、後醍醐天皇・後村上天皇ご二代の、正成・正行父子への厚きご依頼のお言葉、それに力を尽くしてお応えを誓う父子の、真情あふれる応答、激しく胸を打つ。天皇は、元田の吟をお聞きになり、日本国家の伝統が危機に瀕した時代、後醍醐・後村上両天皇の御身を棄てての壮大なお企てと、正成・正行父子の、無二の忠誠を回顧し感を深くされたことであろう。
正成・正行父子桜井の別れを詠まれた御製がある。
桜井里
子わかれの松のしづくに袖ぬれて昔をしのぶさくらゐの里
また、孔明を詠まれた御製がもある。
臥す龍の岡の白雪ふみわけて草のいをりを訪ふ人はたれ
劉備が、いわゆる三顧の礼をもって、孔明の庵を訪れる場面であるが、「白雪ふみわけて」は、『三国志演義』の作った物語である。元田は、『論語』の御進講のなかでこの御製に触れ、
「(右御製)と詠じ玉ふに至ては先王の孔明を求むる心の切なるを希慕(願い慕う)し玉ふて、聖躬(みずから)賢を求むるの誠を以て親ら劉備に比し玉ふの御心言外に靄(あい)然(ぜん)(お気持ちがあふれている)たり。」(『経筵論語進講録』)
と感想を申し上げたことがあった。
これは、明治十一年(一八七八)正月から始まつた『論語』御進講の第四回目(月日は不明)のこと。 この日は、「学而(がくじ)篇」の「忠信章」の御進講であった。「日に三省」で有名な章である。
「曾(そう)子(し)曰く、吾日(われひ)に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交りて信ならざるか。習はざるを伝へしかと。」
大略の意味はこんなことであろう。
私は、毎日、幾度となく、自らの行いについて、これでよかったのか、間違いはなかったのかと厳しく反省してみます。それは、①他人のために為すことに真心を欠くことはなかったか(忠ならざるか)、②友人との交わりに信義に欠けることはなかったか(信ならざるか)、③自分が学んだことで、本当に理解できていない一知半解のことを人に伝えてはいないか(習はざるを伝へしか)、の三点である、と。
曾子(名は参(しん))は、有子とならんで孔子の道をよく伝えた門人中の第一人者で、「亜(あ)聖(せい)」の次に位置する人物として高く評価されている。亜聖とは、「聖人」に次ぐ賢人という意味で、孟子と顔回を指していうのが一般的である。つまり、曾子は、儒教において、孟子や顔回につぐ賢人と仰がれており、『論語』では「曾子」(子は先生の意)と表記されている。しかし、この曾子、かつて、孔子から、「参や魯(ろ)」(参よ、君は呑み込みが悪いね)と評されたことがあった(「先進篇」)。
元田は、このような天才肌でない曾子が、なぜ、孔子の道をよく受け伝え、門人中の第一人者となることができたのか、もちろん「篤学力行」、知識の習得に懸命の努力を重ねたのは勿論であるが、さらにその上、日々切実な「功夫(工夫)」を積み重ねたことにあると注目する。その工夫とは、「日々孜(し)々(し)として自ら省み自ら修むる」こと、絶えず自己を厳しく見つめ直す猛省であった。その曾子が、猛省の指標としたのは、この章にいう「忠」と「信」と「伝習」にあった。その結果として、「蓋し曾子鈍の質、其聖人に親(しん)炙(しや)して其教を受け遂に其道を伝へて亜聖の次に列することを得た」のである。
元田は、さらに、その「忠」・「信」・「伝習」の三指標を「約言すれば」、つきつめていえば「誠」ということになると申し上げた。
このように学問する者の最も力を入れるべきところ(「学者の最当に力を尽すへき所」)は、「致知(知識を極めること)・存養(心を失わぬよう養うこと)・省察(省みてよく考えること)の三つ」であり、「知を致すは道に入るの門、存養・省察は徳を積むの基、」であるとし、この曾子がなした切実なる工夫を、『論語』を学ぶ者は、自己の問題として自分のために具体化(「今、曾子の三省する所を以て諸を己れに体」)して深く考え実地に実践することが肝要であるとした。
陛下おかせられては(「人君と為りては」)、
陛下の国民のために、
「吾民の為に、滋養(育て養うこと)生息(生活)其所を得んことを慮るや、或は忠な らさる乎」、
陛下のまつりごとについて、
「天下に施す所の勅諭命令若くは政事法律の終始表裏ありて、或は信を失はん乎」、
陛下ご自身のご修養について、
「先王の成憲前哲の遺訓を伝誦して、或は習熟せさる乎」、
と、日々猛省いただくべき目標となるものを具体的にお示した。そして、同時に、臣下においても、臣下の立場において(「人臣と為りても」)、陛下がなさるように、陛下とともに(「亦然り」)猛省を重ね、「斯くの如く君臣相共に日々躬親(みみずから)を省察力行せは、則何そ国家生民の治安ならさることあらんや、何そ聖帝賢臣たらさるを思んや」。天皇は、必ずや御歴代に恥じることなき「聖帝」とおなりになり、また、その臣下たちも、歴史に「賢臣」の誉れを残すこととなり、そのような君臣のもと、国家は、自ずからよく治まり、国民の生活は必ず安定するに違いない、と君臣努力の在り方を示したのであった。
古の文見るたびに思ふかなおのがをさむる国はいかにと
元田の立場は、「学問は吾心に習熟するを以て実学とす」という実学主義であった。従って「聖人の一言一行伝へ受くる者、之を吾身に体して玩味熟復実践力行し己れに得て而て後止む」ものでなければならないとして、天皇のお立場を思いながら、真にお役に立つことを熟考し、テキストをこのように解釈したのである。
しかし、日々お側にあり天皇のご日常を熟知している元田には、天皇がすでに日々「省察力行」に真剣にお努めであって、「祖宗の聖帝に愧(は)ち玉はすして、曾子の自修に明察する所ある」のご境地に達しておられることは明白であり、いかにも喜ばしいことであった。
天皇は、明治十年九月中頃から十月はじめにかけご病床にあったが、その日々詠歌をお楽しみになり、その中に、先に記した「孔明」、また、「述懐」と題した、
古の文見るたびに思ふかなおのがをさむる国はいかにと
の御製があった。
元田は、この『論語』「忠信章」の進講を結ぶにあたり、右の御製を拝誦しながら、陛下が日々、「深く親から省み」られていること「斯くの如し」と拝察していること、また、「孔明」を詠まれた御製によっても、陛下は、劉備の賢臣・孔明を求める切実なる心を「希慕」せられ、賢を求める誠のこころにおいて、ご自身を劉備の立場に比しておられることは、直接的な表現をなさっていなくても、私どもにはよく伝わってまいりますと申し上げた。
明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に、「侍講進講」(堂本印象・画)と題する画がある。描かれた場面は、明治七年(一八七四)、赤坂仮皇居での元田の御進講の姿であるという(『聖徳記念絵画館オフィシャルガイド』)。天皇のお机の左脇に元田の机が置かれ、天皇は、右手を書籍にお添えになり、お体はやや左、元田の方に向け進講に耳を傾けておいでになる。元田は手元の文献に目を落としうつむき加減であるが、背筋は真っ直ぐに伸ばしている。元田をはじめ侍補たちの願いはただ一つ。わが君をして、堯舜(ぎようしゆん)(中国古代の伝説上の理想的帝王)とおなりいただくことであり、そのために真剣に心を砕いた。元田の後ろ姿から、安易には表現できないが、この重き努めを慎み、ただひたすら誠を尽くしご奉仕せんとする熱誠と、道を担う者としての威厳を感じさせる。謹厳で真剣な講筵の雰囲気が明瞭に伝わってき、観るものは自ずから襟を正し胸を熱くするであろう。
話を、もう一度あの観菊の宴に戻したい。元田の吟をお聞きになった天皇、いよいよ興にいられ盃を重ねられる。お過ごしになることに心配の侍従は、還(かん)御(ぎよ)を促す。天皇は、元田を太公望に擬して、「今夜は太公望在り汝患ふること勿れ」と仰せになる。時は十時を過ぎ、侍従今度は、座をお移しいただき菊花をご鑑賞ありてはと申し上げる。天皇、「菊花の佳観は明年も又観るへし、元田か詩吟は来年其音声の今年の如くならさる愛(いとおしむ)む」、と、席をお離れにならず、歓談の座をお楽しみになるのであった。その後、歓を尽くされた天皇は、十一時を過ぎて、この日はご乗馬の日であったので、騎馬で御所へお帰りになった。ちなみに、天皇は嘉永五年(一八五二)のご降誕、元田の誕生は文政元年(一八一八)年は三十四年の開きがあった。
君臣水魚の交り
孔明を賓客として迎えた劉備の、孔明への信頼は厚く、孔明もまたその信任によく応えた。その関係は、「是に於て、(劉備と)亮(孔明)と情好日なり」といわれるようになる。このような二人の関係は、それ以前から劉備と苦楽をともにしてきた関羽や張飛には、必ずしも心地よいものではなかったであろう。劉備のもとへも不平の声が聞こえてくる。それらに対して劉備は、
「孤(私)の孔明有るは、猶ほ魚の水有るがごときなり。願はくは諸君、復(ま)た言ふ勿かれ」
と。関羽や張飛はこの劉備の真実の心をよく理解し了解した。それは、劉備の人柄でもあり、また、孔明の力量・手腕でもあったのだろう。「君臣水魚の交わり」という有名な言葉が生まれた。
侍補をはじめ天皇のお側にある人々の君徳培養への熱誠については先に述べた、しかし、それ以上に、天皇ご自身の、ご研鑽へのお気持ちは大きく、そのため侍講・侍補へのご期待も大きかったに違いない。天皇は、彼等の陛下のためにする誠意を率直に受けとめられ、厚き信任と親愛をもってそれにお応えになった。
聖徳記念絵画館の「侍講進講」の画が描きだしているのは厳粛な講筵の場面であるが、この愉快な一こまの挿話とあわせると、「君臣水魚の交り」という言葉が、明治の宮廷にその典型として実現していることに感銘を深くする。「義は君臣情は父子」という言葉もある。君臣の関係は「義」、「君は君たり、臣は臣たり」(『論語』顔淵)、あくまで名分は厳でなくてはならない。しかし、その真情においては、天皇は臣をこどものように親しく思われ、臣は天皇を親のように慕う姿である。このあたたかき君臣の心の通い合いは、狭く宮廷内に留まるものではなかったこというまでもない。
天皇はご自身を劉備の立場におかれ、またお側の人々も孔明たらんと力を尽くす。その目標とするところは、東洋世界が夢に描いた「堯舜」の世を、この若い国・日本に実現することにあった。天皇のお徳のもとに万民が和楽する道義国家の実現であった。
天皇は、多くの優れた人々を得られ、天皇を中核とする大きな力がこの若い国日本に育ちつつあった。
先に、東京美術学校が、楠木正成像と同時に西郷隆盛像の製作に取り組んでいることに触れた。『明治天皇紀』を繙いたので、西南の役終焉の明治十年九月二十四日の条をも見ておこう。
「乱(西南の役)平ぐの後一日、天皇、「西郷隆盛」と云ふ勅題を皇后に賜ひ、隆盛今次の過罪を論じて既往の勲功を棄つることなかれと仰せらるる、皇后乃ち、
薩摩潟しつみし波の浅からぬ
はしめの違ひ末のあはれさ
と詠じて上りたまふ、皇后又嘗て侍講元田永孚に語りまたはく、近時聖上侍臣を親愛したまひ、毎夜召して御談話あり、大臣・将校を接遇したまふこと亦厚し、隆盛以下の徒をして早く此の状を知らしめば、叛乱或は起らざりしならんと、」
とある。天皇の西郷に対する厚きご親愛と、深きお悲しみを感じとることができる。