皇學館大学附属図書館『田中卓文庫目録』を手にして

皇學館大学附属図書館『田中卓文庫目録』を手にして

田中卓先生追慕断片

皇學館大学附属図書館『田中卓文庫蔵書目録』

を手にして

 

 

 皇學館大学附属図書館は、令和3年11月1日、『田中卓文庫蔵書目録』(以下、『目録』)を刊行した。A4版554頁におよぶ大冊である。

 同図書館における「田中卓文庫」創設の由来と『目録』の刊行について、吉田直樹図書館長は、その「序」において、

 

 「平成30年11月24日に逝去された田中卓先生の研究資料からなる「田中卓文庫」の目録が完成した。
 田中先生がご生前中から研究資料の本学での活用を当時の清水潔学長に託されたことにより、和書12,338点、和装本740点、軸装58点、洋書51点、合計13,187点にもおよぶ「田中卓文庫」を創設することが叶った。」

と説明されている。

 

  『目録』を手にして、先づ驚くのは、ズッシリとしたその重みである。この重量感は、そのまま、この「文庫」の威力を示すものであろう。恐らく、個人の「文庫」としては希に見る収蔵量なのではないだろうか。

 これだけの膨大な資料を、3年という短期間で、移送受入・収蔵・分類・配架、そしてカードの作成、『目録』の編集・刊行を一挙に成し遂げた、当図書館の労苦はいかばかりであったろうか。これも大きな驚きである。この文庫が、寄贈者の期待通り、今後、大きな働きをすることは間違いないだろう。当図書館のためにもこの壮挙を心から喜びたい。

 

 『目録』は、13,187点の資料を、「和書の部」・「洋書の部」・「和装本・軸装の部」・「私製資料の部」の四部に分類し、「和書の部」・「洋書の部」・「和装本・軸装の部」は、日本目録規則(NCR)に準じて編集されている。ただし、「和装本・軸装の部」の「和装本」の中には、分類規準外の「青々塾関係」資料が収録されている。

 第四の「私製資料の部」は、吉田館長の「序」によれば、「先生お手製の資料」であるが、それは下記の様に分類されている。

   「田中卓著作集・出版関係/講演・講義関係/研究ノート/青々塾関係/教師会関係/哲学/歴史/社会科学/その他・全般」

 

  田中卓先生(以下、先生)は、昭和49年(50歳)3月、ご自身の論文集『日本国家成立の研究』(皇學館大学出版部)を刊行された。その巻末に、「歴史家、三つの立場」と題する「あとがき」があり、その中で、

  「親しい友人のあいだでは、冗談めかして、私の顔は三つあるといふ。第一は、実証史学の旗の下、厳密な史料考証の学をめざす文献主義者として。第二は、古典尊重の立場から、神話・神社・皇室・氏族等の考究・顕彰にとりくむ伝統主義史家として。そして第三は、戦後の思想界、特に教育界の正常化を訴へて対社会的に奔走する啓蒙運動家として、である。

 もとより、元来、私はそれほど器用な人間ではないから、それぞれの顔を巧みに使ひわけてゐるわけではない。むしろ自分自身は、その時その時の関心の赴くまゝ、菲才に鞭打ち、微力を尽してゐるにすぎないのである。しかし、結果的に、自らの論文や著述を整理してみると、確かにその三方面に分類し得るやうである。」

 と、ご自身の仕事を総括されていた。

 

 その後、先生の史学研究は、第一・第二の分野に加えて、平泉澄博士と平泉史学に関しての論考・原史料の提供という新たな分野が加わった。従って、先生のお立場は、「四つ」あると考えてよいであろう。

 

 第一・第二、それに加えて「平泉史学研究」という学術研究の成果は、『田中卓著作集』12冊・『続田中卓著作集』6冊の金字塔にまとめ上げられ、学界の至宝として提供された。

 

 「第三」の立場について、前掲の「あとがき」には、

 「第三の私の立場を代表するものは、昭和三十七年刊の『愛国心の目覚め』(至文堂)をはじめとする、二、三の著述で、近く刊行予定の『維新の歌』(日本教文社刊)も、この部類に属するであらう。昭和三十八年に日本教師会が発足以来、いまに私がその会長の席をけがし悪戦苦闘してゐるのも、同様な微志に基いてゐる。しかし、このことは、象牙の塔にたてこもり、孤高を持するを以て誇りとする所謂学問の世界からは、明らかに世俗化と受けとられ、異端視されてゐやうである。

 けれども、私の気持ちを率直に云へば、嘗て平野国臣が嘆いたやうに〝君がよの安けかりせばかねてより身は花守となりけんものを〟、だ。たゞ一筋に学問の生活に専念できる世の中であつてほしいといふ願ひは、決して人後に落ちるものではない。」

 と述べられたが、この「第三」の対社会的啓発活動の分野においても、その後、いわゆる「戦後体制」の本質に対する鋭い分析、元号の法制化の問題等々、時事・時局に対する課題について精力的に執筆や講演で啓発に務められた。晩年には、皇室、特に〝皇統問題〟を中心に、精魂を傾けて世に訴え続けられた。

 

 これらの、学術研究と対社会的啓発の両面の活動については、文藝春秋社の月刊誌『諸君!』に、平成16年1月号から18年2月号まで25回にわたって連載された、「祖国再建」に詳しく回顧・解説されている。後に、連載を上・下に分け、〝上〟を「建国史を解く正統史学」(『田中卓評論集3』)、〝下〟を「我が道を征く六十余年」(『田中卓評論集4』)と分冊して刊行された(青々企画刊)。〝上〟は日本古代史を中心とする学術研究の面、〝下〟は、時事・時局に対応する対社会的啓発活動に関する回顧となっている。

 

 『諸君!』連載の副題は、「正統史学を貫く一学徒六十年の闘い」とある。この激しい副題は、特に編集部の意向によったものだということであるが、ここに回顧されている、先生の六十余年の仕業は、まさに「闘い」そのものであったことを了解する。その「闘い」とは、一言でいえば、戦後日本における、〝革命〟と〝伝統〟の対峙・対決という、白熱の場裡で行われたものである。

 

 〝上〟「建国史を解く正統史学」で最も重大なことは、戦後の一時期、古代史学界を風靡した、「王朝交替論」に対する批判的研究で、それを沈静化させたこと。またさらに、独自の雄大な構想によって、自らの「建国史」・「古代史像」を打ち出されたことである。

 

 「王朝交替論」は、伝えられる「皇統譜」の一系性を否定し、歴史上、古王朝に対する〝征服・革命〟があったとするものであるから、この論説を克服することは、現実において、皇室の重みを確認することに連なる。その国家的意義は如何にも重大であった。

 

 私は、ある時、独自の理論をもって、民族派・新右翼運動を組織・指導してきた鈴木邦男氏(当時「一水会」顧問)と、講演会で会い言葉を交わしたことがあった。鈴木氏が、「一度、先生に会いたいなあ…。」と言うので、先生に申し上げたところ、「私も、是非会いたい」とのご返事であった。そこで、平成20年2月13日、二人で先生のお宅に伺った。鈴木氏は、その感想を、2月18日、自身のブログ「鈴木邦男をぶっとばせ!」に、

 

「2月13日(水)朝一番の新幹線で名古屋に。そこから乗り換えて伊勢に。伊勢神宮にお参りした。雪だった。珍しい。私が行ったからか。皇学館高校の先生、三輪尚信さんに案内してもらう。それから田中卓先生(皇学館大学名誉教授)のお宅へ。田中先生にお目にかかり、いろいろと教えてもらいたかったのだ。随分と久しぶりにお目にかかった。お元気だった。先生は、僕らが右翼学生運動をやっていた頃から指導して頂いた人だ。「YP体制」という言葉を作った人でもある。平泉澄先生の高弟だ。戦前、戦中の日本の話。憲法の話。三島事件の話などを聞く。とても意義深いお話で、貴重な時間だった。本当にありがたい。」

 と記した。

 

 私は、直接〝運動〟にかかわることなかった第三者であるが、傍らで、お二人の会話を聞きながら、鈴木氏や私等の世代が、自己の思想を形成すべき、高校・大学・社会生活の初期に遭遇した、第一次と第二次の「安保」という、あの厳しく激しかった「革命前夜」の時代に改めて思いを馳せていた。

 その時、大学や街頭で、強大な左翼運動と直接戦う民族派学生は、単なる政治的アジテーターではなく、学問的・思想的に信頼すべき理論的指導者を求めていた。しかし、当時、この純なる要請に応える勇気ある学者は、それほどは多くはなかった。

 

 鈴木氏は、先のブログで、「『YP体制』という言葉を作った人」と特に紹介しているが、これは先生の言論活動の中でも特筆すべき重要な事柄である。

 それは、右派の活動を、単に、対左翼・反革命という防御的・消極的な立場から、あらたな目標を示し、積極的に、戦後体制を超克し、日本本然の姿を回復する活動へと転換させ、活動のエネルギーを高次に昇華させる理論的な根拠を示した。言いかえれば、〝破邪〟から〝顕正〟へ一歩を進めるものであった。

 

 「YP体制」とは、「ヤルタ・ポツダム体制」を略したもの。当時多くの場面で、活動の標語・スローガンとして用いられた。この思想は、先生の講演記録「歴史家として観た戦後五十年――〝YP体制〟の克服と〝国連体制〟の崩壊――」(『國民會館叢書十五』に詳説され、『田中卓評論集1・愛国心と戦後五十年』(青々企画刊)に収められている。

 

 植村和秀氏は、追悼文集『田中卓先生を偲ぶ』に、「田中卓先生と平泉澄研究」と題する一文を寄せ、

 「昭和史・昭和政治思想史を公正に理解するためには、平泉澄博士の思想と生涯についての、精密な研究が不可欠です。しかしまた、田中卓先生の思想と生涯についての、精密な研究も不可欠だと思います。それは、将来に書かれるべき平成史・平成政治思想史にとりましても同様です。」

 と記されたが、傾聴すべき指摘だと思う。

     

 先生は、しばしば、皇學館大学は、日本の「精神センター」でありたいと抱負を述べられていた。この先生の学問研究と理論形成に大きな役割を果たし、常に先生と共に在った、膨大な資料が、また、先生の活動の記録とともに、散逸することなく、皇學館大学附属図書館という公共の施設に保存され、広く活用されることになった。

 この「文庫」自体が、すでに立派に、日本の「精神センター」として存在しているのだと思う。

 

                 (  令和3年12月12日 先生98回目のお誕生日に )

 

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